2012年7月24日火曜日

いじめとネット

ところでいじめの報道を見る度に思う事があるのだが、最近のいじめっていうのは何故多対一なんだろう?
いじめを肯定するものではないが、一対一であるなら又違うのではなかろうか?
僕は最近のいじめ報道でどうにも納得できないのが、この「多対一」ということなのである。

誰かが誰かの事を、見た目…はそうそう変えようがないが、性格的に嫌いというか認められないということはある。これはいじめ云々でなく、人の相性と捉えれば、自分が該当者でなくとも思い当たる節はあろう。
それをぶつけれられることが辛い人がいることは重々承知だが、ぶつける側もそれによって相手が変われば接し方が変わる、そういう思いで辛くあたっていることもあろう。いや、それもエゴと言われればその通りなんだが。
そして、一対一なら、そういう接し方の先に本人同士の接し方の変化もあろうが、多対一ではそうなりにくいのだ。恐らく多対一のいじめはいじめる側の精神バランスを取るために行われているような気がする。故にいじめる側の集団から、相手に同情などしようものならとたんに自分もいじめられる側になる。だからいじめる側から抜けられない。

まぁ、これは僕の推測だから、違うかもしれないが、あくまでも僕の主観ではそう見えてしまう。
僕は人により精神的な強さ弱さがあることはわかっているが、それでも、一対一で相手に対して何かを言うのは健全だと思っている。

さて、ネット。
ネットでも誰かが誰かを(往々にしてそれは目立つもの、大きいものが多い)を叩くと、その尻馬に乗り叩く人がいる。人によっては元の人より更に酷く叩く。なんせどれだけやっても集団の中の一人だし、そそくさと撤収すればいい。
そりゃ気分がいいだろう。自分に被害はない。

この歳になったからなのか不思議なことがある。自分に害があるようなことでもないのにネットで叩くのは何故なんだろう?上述したいじめ、主に学校なら、同じ集団に対象がいる。しかしネットだ。それこそ見なきゃいい。もしかしたら叩く相手は敢えて見たくて叩くのだろうか?
しかし、そこも不思議で、相手が見えているなら同じ土俵で、自分も相手に分かるようにして叩けばよかろう。自分は傷つきたくないが相手は傷つけるなどというのはどうにもわからん(こともないが…)。
そんなことをやって気分がいいだろうか?最高に気分が良くなりたきゃ相手と同じ土俵に立って、己の主張で相手を負かせば良い。そちらの方が気分が良いと思うんだけどねぇ。

で、こちらの話に関して先のいじめとちょっと違うのは多対一に限らないという事だ。但し、辛く当たる方は己の正体を明かさなかったりしがちだが…


ま、そんなことを書いたところでどうにもならんことはわかっている。
実はネットで誰か(時に対象は個人でなく会社であったりするが)を叩いたところで、何かが変わることは少ない。無いことはないが、恐らく何も変わらないことが多いだろう。それくらいなら、自分の環境を自分にとってより良い方向に変えることでも考えていた方が余程建設的な気がするんだが。(であるならこんなエントリ書いてるな!って話だが…)

自分が叩かれているわけでなくとも、自分の周囲に叩かれているないしは叩かれている人がいる。誰かの努力に対し心無い言葉を吐く。その行為に如何程の意味があろうか?それが己の精神の安定剤になるならば、そんなことで安らぐ心を治した方が良いと思わないのだろうか?
他人が努力してるのが気に入らないなら見なきゃいいだけなのにね。ネットだから見ないでおこうとしても、うっかり見えてしまう事はある。ま、そんなときは残念ながら地雷踏んだとでも思うしかなかろう。その時だけ然る場所で愚痴ればよい。

さて、ネットでクソ真面目な事を書くのは性に合わない。う ○ こち ○ こま ○ こだけ書いていられるネット環境になればいいなぁ~と心の底から思う。
そうならないのも、日本の政治経済状況が悪いからなのか?

そうそう、いじめといえば、まだ読みかけだけどこの本

高校3年生が書いたとは思えないほど文章しっかりしてる。読みやすい。
細山くん、考えるヒトに出てた時にいい味出してるから好きだったけど、もうああいうキャラではやれないよねぇ…
本屋で見たら、手にしてちょっと立ち読みして、面白そうだと思ったら買ってみて欲しい。

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