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2014年2月6日木曜日

成りあがり

関東に来てからずっと千葉県内に住んでいるから上京というのも違うような気がするし、東京といえば語弊があるんだが、そんなことを書くのも面倒なので、今回は上京&東京で。

名古屋から上京してくるとき友人に
「『成りあがり』一冊持って上京か」
って言われた。そう、夢や野望を持って上京する奴のマストアイテムは『成りあがり』なのだ。『成りあがり』で夢や野望っていう爆弾の導火線に火を点けるのだ。僕らの世代、それが成り立つ。意味わかる。

しかし、僕はその時『成りあがり』を買わなかった。読まなかった。今まで読んでいなかった。失敗だ。失敗だったね。

今更Kindleで購入。読んだ。ギョーカイ用語をカタカナで散りばめた文章、一見散文に思える構成。だけど伝わるヤザワ。これ、凄い。グレート。

スゲぇ。スゲぇよ、この本。今更ヤザワの評価なんてする必要無いだろ?輝かしい実績がある。
この本で僕が注目したのは糸井重里だ。この本を読んで、糸井重里っていう人がわからなくなった。天才なのか?凡人なのか?
俺、糸井重里の一番の仕事って矢野顕子の「クリームシチュー」の歌詞だと思ってたからね。マジで。

実はこの本を読んだきっかけはホリエモンである。ヤザワとホリエモン。違うように思える二人だが、共通点は成功していることか?否、はっきりと自分を持っているっていうことかな。だから成功したんだろう。ホリエモンは刑務所に入ったりしてるが、出所した今も活躍している。受刑者のハンデを感じさせないくらい活動している。

名古屋から上京するときにこれを読んでたら、又気合が違ってたかもね。尤も、「東京、ナメんな!」って変にイキガッてたかもね。アラフォーだったけど…

書評をするには実に難しい本。なんせ何回「コオマン」って出てくるんだよ…ってトコもあるしね。
だけど、これほど人によって両極端に受け止められる、毒にも薬にもなる。聖書にも紙切れにもなる本もそう無いだろう。

2013年12月31日火曜日

今年読んだ本の中で良かったものを2冊

昨年や一昨年に比べると読書量が大幅に減った。もしかしたら年間で30冊読んでないかも…

さて、方々で言っていることだけど、今年読んだ本の中で良かったものを2冊。


まずは「知の逆転」。各界の「知の巨人」へのインタビューを纏めた内容。
多少なりともものの考え方を変えるきっかけになりうるものだと思う。


そして「ゼロ」。ホリエモンの文章は相変わらず完成度が高い。内容が薄いわけでなくスラスラ読める文を書ける人っていうのは中々いない。
以前ホリエモンが何冊も出していた自己啓発系の本とは趣が異なる。
スラスラ読める内容で、最後の一行でグッとこさせる締め。
読後感も良い。

2013年10月27日日曜日

聖書

人生で初めて「聖書」を読み始めた。

きっかけはKindleの安売セール。ここで、幾らだっただろう?確か70円くらい?で、新訳聖書が出ていたからだ。
聖書にも色々出ているのは知っている。金額からしても訳があまりよろしくないのかもしれない。でも、もしダメな訳だったとしても諦められる金額だ。

しかし、読み始めてみてわかった。「なんのことだかさっぱりわからない本」だということが。
ひとつひとつが教えなんだろうけど、どうにもわかりにくい。まぁ何度も読み返す性質のものだろうし、徐々にわかっていくものなんだろうけど、初心者が一人で読むには「トンデラハウスの大冒険」みたいな優しさが必要に思えてくる。
と言っても、中に出てくるフレーズには「なるほど」と思えることもあり、そういうものをかいつまんで読むだけでもためになるだろう。そして、そういうフレーズが聖書のなかのフレーズとしてよく引用されるもの、街の看板に書かれているものだったりするのだろう。

因みに、聖書を読み始めたのはキリスト教徒になろうと思ったからではない。やはり未だに宗教というものに対する興味が尽きないからだ。もし真剣にキリスト教を始めたくて聖書を買うなら特売で買ったりしないだろうし、一緒に買った本が株の入門書だったり正しいマスターベーションの本だったりはしないだろう。
それに、もしぼくが宗教のをやるなら多分浄土真宗。親鸞と誕生日が同じっていうところに運命的なものを感じるから。

2013年8月26日月曜日

読書のBGMが落ち着いた

以前から悩んでいた読書中のBGMがようやく落ち着きそうだ。
今はジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」を読んでいるんだけど、これを読む時に色々BGMを変えてみた結果、押尾コータローに落ち着いた。
元々

  • 歌は歌詞に脳みそ使うからダメ
  • 演奏下手なのダメ
  • 演奏上手いのダメ
という基準で考えていた。
この基準だと押尾コータローは演奏が上手いからダメなんだけど、演奏が下手で

「なんだこりゃ!」
ってことに脳みそ取られるより、演奏が上手くて
「これは!」
ってことに脳みそ取られる方がストレス無いし。


幸いにも(?)何度も聴いた結果、大体聞き流せるようになってきたのも大きい。

2012年11月4日日曜日

菅直人の原発本

著者&タイトルが気になったので購入。

ブクログにもちょっとレビュー書いたけど、違う内容で。
Amazonではこの本の評価が結構分かれている。

恐らく、本人にとっては見たまま、聞いたままのことを書いているのだろうが…
それが事実だとしても、「悪いのは私じゃない」と訴えているような感じというのだろうか?そんな文が続く。
要は、事象と共に、報告されなかった、もしくは遅かった。報道が間違っているといった事が延々と書かれているのだ。
それが事実だとしても、自己弁護っぽくて、流石に途中から流し読み。

果たして、被災者の方達がこれを読んだらどう思うのだろう?
「菅さんは頑張ったのね、悪いのは東電ね」
なんて思うのだろうか?だとしても、それで被災者が救われるのだろうか?
何故今これを出したのか甚だ疑問。
# 選挙対策という見方もあるみたいだが

しかし、1章2章の言い訳がましさと比べると3章は結構良い内容だった。でも、3章は短いのよね。この内容だけ冊子で出せばいいのに…
# 3章は原発のコストなどの話。僕にとっては知らないことが書かれていて価値があった

何とも微妙だけど、読んでみると、あの震災に於いての総理大臣の状況というのはわかる。そういう意味では読む価値があるだろう。但し、それはあくまでも菅直人視点でもことだけど。

そういえば、前に「笑ってはいけない」で、ジミー大西が「菅直人」を「カンチョクト」って読んでたなぁ…

2012年9月30日日曜日

1日1食 VS 小太り

タイトル通りです。
この2冊を読んだわけだが…


南雲先生の提唱する健康法に対して、高須先生が批判している。それも、名前こそ出してないけど、結構真っ向勝負。

まず、南雲先生の方は1日1食を基本とした健康法。他はゴボウ茶が体にいいとかそんな話。
そして、高須先生の方は、1日1食じゃダメって話。ちゃんと3食食べましょうと。
僕は、南雲先生の健康法の主たる効能は、長寿ではなく、アンチエイジングだと思っているのだが、高須先生は、ダイエットと捉えているようだ。この辺には違和感があった。確かにダイエットにもなるが、本のタイトルの通りアンチエイジングが主目的では?確かに、食べる量が減れば摂取カロリー量が減る。結果的にダイエットにもなるが。

まず、こういう本って、自説を説くために、極端な例を出したりするんだけど、どちらにもそういう話が出ている。
具体例を書くと、南雲先生の方は、人間の心臓の一生の鼓動回数には上限があるから、運動し過ぎたら長生きできないっていう話の中で、マラソントレーナーだったかな?の人が急死した話。高須先生の方は、極端な絶食で死んた人の話。
こういうのって
「そりゃ、中にはそういう人もいるだろうけど、全員もしくはそれが多数派なの?」
と思わざるを得ないような内容。だから、どちらの説も、全部を鵜呑みにはできない。
前者に関しては、その人が死んだ時点で、心臓の鼓動回数が上限に達したからか?なんてわからないだろうと。
後者に関してもそうで、そこまで絶食する人がどれだけいるんだと。極端に絶食する人は、もう精神的にやられているんじゃないかと。

あとは、「xxxな人が多い」とか「xxxという人が増えました」みたいな言い回しも要注意よね。確かにあなたの周りではそうかもしれない。だが、多い少ないや増加減少なんてのは、結構曖昧、個人の感覚にもよるので、全体的な統計での比率と比べて話をしないと信ぴょう性に乏しくなる。
例えば、感情的になった人から、
「あなたのこと、みんなそう言ってるわよ」
って言われて調べてみたら「みんな」は一人だったとかね…

他に、上述したことに近いけど、こういう本でありがちなのは、数字。「xxxであった人のうちoo割が△△だった」みたいな。xxxでない、それも含めた全体の統計を出さずに言われても、イマイチ信用できないし、xxxである人は、他に別要因の共通点があったりしないだろうか?とかね。



ただ、こういうことは、この両者に限った話ではなく、本を読んでいると結構あること。別視点からも見るようにしないと、ハマるなぁと。



で、どっちを信用するか?
今までも色々な健康法やらダイエット法が出てきた。古くは紅茶キノコとか(なんかゴボウ茶とダブるなぁ)。でも、ほとんどが一時的なブームで終わっているように感じる。
未だに一定数見る健康法、ダイエットって「ジョギング」かな。
南雲先生の方は絶好調で、これ以外にも何冊も本を出しているようだ。しかも最近は、ゴボウ茶の監修も行なっているみたい。時の人だなぁ〜。でも、こうなってくると、金儲けの臭いがしてきて、どうにも胡散臭くなってくる。
しかも、ゴボウ茶ってどっかの農家の人に教わったって書いてたような。だったら自分が監修するんじゃなくて、その人の監修のがいいような気もしなくもないけど、ネームバリューも大切だから、まぁいいだろう。
しかし、南雲先生の方法も「あるある大辞典」で取り上げられたら1週間で終わっていただろうに…あの番組が終わってしまったことが悔やまれる。

色々書いたけど、先日自分でゴボウ茶作ったばかりだし、それが無くなるまでの間は、僕は南雲派で。
しかし、高須先生の話も「ごもっとも」と思えるから、二人の間を取って1日2食にしよう。

しかし、「医者が書いた」「出版社が出している」「書店に並んでいる本」これだけで信用しちゃう(出版社や本はテレビ局や番組でもOK)、考えの浅さが一番の問題か。とはいえ、専門外のことなんて、結構そんなもんだと思うけど。

このエントリを書くために、南雲先生の本にもう一回目を通そうと思ったけど、見つけられなかった。まず、健康法よりも先に整理法の本を読むべきだな。僕は。

2011年9月16日金曜日

婚活したらすごかった

タイトルにつられて読んでみた。


「出会いが無い」
ということを聞くことは結構あるけど結局それは自分で作らなきゃどうしようもない。
ネットだのパーティーだの更には結婚相談所、そういう行動に「必死になってる自分」を感じて躊躇するということもあると思うけど、現実的に考えたらそういうことしなきゃ交際に繋がる出会いなんて無いからなぁ~。

一章に出てきた女性が面白く、「上手いなぁ」と思う。やっぱり最初に興味を引く話題を書いておかないとその先を読む気になれないから。その後も出会った女性の話が書いてあるけど最初の女性ほどのインパクトは無い。とはいえ色々な女性と巡り会える可能性があることはわかる。

僕はネットの紹介サイトも結婚相談所も使ったことが無いけど20代の頃に一時期所謂「ねるとんパーティー」というのにちょくちょく行っていた時期があるけど、パーティーの日の後も会っていたのは数人しかいなかった。
但し知人の中にはそういうパーティーで知り合って結婚した人もいる。だからこの本に書かれていることも「あるのかなぁ」と思わなくも無い。
尤もこの本に書かれているような職業の人と知り合えたことはない。これは年代と払った金額、なにより「年収」や「学歴」に制限のあるパーティーに行ったことがないからかも。東京と名古屋の差も大きいかな。

さて、先に出した一章の女性。要はMなんだけど、これって好きな人じゃないと困る。
僕も自分がそんなにボキャブラリが少ないとは思わない。だが、「言葉責めして」と言われると本当に言葉が出てこない
「このメスブタが」
とか
「淫乱が」
くらい?しかしこんな言葉を言った時点で我に返りそう。あまつさえ
「この俺のデカいのが欲しいんだろ」
なんて無理無理…小さかないけど(この一言が婚活)
その言葉を発して与えても次の言葉が続かない。

2011年8月27日土曜日

「ガンダム」の家族論

タイトルからすると「ガンダム」関連なのか?と思うけど、富野由悠季の家族論。その家族論とそれに関連する作品のエピソード。作品はガンダムに限らず富野由悠季が監督をしていたものが出てくる。だが全ての家族論に必ず作品のエピソードが交えられているわけでもない。
結局『「富野由悠季」の家族論』なのだ。タイトルに「ガンダム」が付いているのは富野由悠季だから。良くも悪くも「ガンダム」の人だから。



もう既に70くらいの人が書いてるだけあって、フェミニストな人や若い人が読むと「オイオイ」って思ったり不愉快に思う表現も入っているように思える。僕くらいの年代、所謂「ガンダム」世代が読めば面白いと思えるんじゃないかと。

因みに富野由悠季は「ガンダム」世代って言葉が好きそうではないし、そもそも「ガンダム」に過剰な思いを持ってほしくないみたいだ。
所詮アニメに限らずフィクションの作品程度で人生は語れないし、語って欲しくないんだろう。エンターテイメントでしかないもん。だからもし「人生はガンダムで学んだ」なんて言ってる人がいたらこの総監督からすると噴飯ものなんだろうな。
※僕はスポーツを人生の縮図って言うのに比べればマシと思っちゃうが

で、そもそもこの手の本はあくまでも書き手の考えでしかないし、その人が過去の自分を否定していようがどうしようがそれはこれを書いたときの心境でしかない。しかもこの本、震災以降に書いたものだろう。あんなことがあればそれが心境に変化を及ぼすのも当然。

単に「ガンダム」を作った人が家族というものをどう考えていて、「今の心境」で過去の作品と照らし合わせて考えるとこうなるっていう程度に読んでおいた方がいいと思う。だから例えば5年後には言うことが変わってるかもしれないし、そうだったとしても不思議じゃない。だから、過去の作品を否定している部分があっても「ああそうなのね」って程度で、批判するほどのもんでもないと思う。

内容で面白いのは家族を「他人の集団」と定義していること。これを読んで思い出したことがある。
以前、僕は母親に
「家族だって自分じゃないんだから他人だろ?母さんが死んだからって俺が死ぬわけじゃないし、俺が死んだからって母さんが死ぬわけじゃない。」
と言ったことがある。そう言われたときの母の気持ちはわからないが、気分の良いものではなかっただろう。自分が普段からそう思っているから言っただけで他意は無い。怒っていたわけでもない。
やはり自分以外は他人だ。他人の対極は家族や恋人、親しい人ではなく自分である。この点は共感できた。

そして、本の中では「嘘八百のリアリティ」なんて表現が何度か出てくるが、要はその中に視聴者がリアリティを感じられればそれでよいのだろう。そんな作者だからか、過剰なエロ作品(アニメというよりむしろエロビデオなどに関してだと思うが)のリアリティの無さを批判している部分が笑えた。
「男性が一度に五人も十人もの女性の相手を務めたりするなんて、セックスをし過ぎるとおちんちんの先が痛くなるという絶対的なリアリティがまったく無視されている。」

「男が5人も10人もの相手をすること」より「ちんちんが痛くなることを無視している」ことにリアリティが感じられないらしい。
なるほど、前者はそれこそかつての大奥のようなものがあれば特権階級には現実的?そうでもなく、モテない男だって金があれば何とかなるが後者はどうしようもない。言われてみればリアリティないわなぁ…ってそもそも5人10人の相手が欲しいと思う人はいるだろうが、それを「同時に」って考える人がいるかどかは甚だ疑問。普通に考えたら月曜から金曜までに別の女をアサインして土日休憩くらいまでだろう。それを2週間で上限10人。そんな人なら確かにいそうな気がする。

2011年8月23日火曜日

本に未来は無い

僕らしからぬタイトルにしたが、悪意のあることでも無く批判でも無く。
昨年末から僕は出来るだけ本を読むようにしている。しかし中々100冊読むのは大変だ。

さて、そんな僕だが、出来るだけ読まないようにしている本がある。それが小説と本田宗一郎。
小説は文章力を養うにはいい。漫画と同様時勢を知るにもいい。だが、それなら漫画の方が、週刊漫画を週刊漫画雑誌を読んだ方がいいだろう。そんなことよりも基本的な知識を知るために本を読みたいのだ。ストーリーはいい。

で、もうひとつ、本田宗一郎、もしぼくが尊敬する人物を挙げろと言われたら出す人物。技術者として素晴らしいと思う。何よりホンダの車に乗った時、あの吹き抜けるエンジンの快感。あんな車を作る企業にした人物。こち亀の両さんがサクセスストーリーを歩んだような人物。技術に真摯でありつつ、儲けた金でしっかり遊んでる(当然自腹で)。どうしたって僕の性格では憧れてしまうし、20代の頃にも何冊か読んだ。井深大の「わが友本田宗一郎」に書かれていたエピソードだったと思うが、本田宗一郎が死ぬ前、病院の中を奥さんにおぶられていたとき「満足だった」と言ったそうだ。一技術者としてそんな生き方が出来る事にどれほど憧れたことか。

日本で初めてリッターあたり100馬力を出したNAエンジンB16Aを初搭載したインテグラが僕の最初の愛車。その後、兄のカローラFXに乗った時期もあったが、その次、B18C-96SpecRを搭載した最初のインテグラTypeRこそ僕が2台目に自分で買った車。僕は生涯で2度車を買ったが、その2台共がインテグラ。因みに最初のインテグラは14万Km、インテグラTypeRは9万7千km走行している。
※まぁ今免許は無いが…

というわけで本田宗一郎、企業としてのホンダが好きな僕だが、本田宗一郎関係の本は読まないようにしていた。何故かといえば、好きな事に偏ればそればかりになるから。いい歳なんだから好きでもないようなこと(経済とかね)も知らなきゃいけない。だから、本田宗一郎というド真中は避けてた。

※同様な理由で技術書も


でもね、息抜きってかたまたま本屋に平積みされてたからうっかり買っちゃったの。

表紙はマクラーレンのF1マシンに座る本田宗一郎が笑っている写真。この写真、好きだなぁ。

改めて読んでみると、やはり素晴らしい人物だ。本に載る時だから美化されてたり、それなりのバイアスはかかってると思うけど、時系列のエピソードは誤魔化しようもないし、結果としてホンダがバイクのレースやF1で素晴らしい記録を作った事は事実だ。

えらい前フリが長くなってしまったが(だからこそ本田宗一郎の本は避けてたわけだが)、この本の中に非常に面白い一節がある。
「本というものには過去のものしか書かれていない。」
この文を読んだ時目から鱗が落ちた思いだ。確かに。既に技術が確立されたものをぼくらは本で読んでいる。ともすればその知識に精通した人に聞けば事足りるわけだ。今なら尚の事。まず検索すればいいし、それで出てこなきゃblogやtwitterで疑問を書けばコメントが貰える(可能性がある)。
更にtwitterなら即時性がある。隣のエキスパートに聞くのに近い効用があるのだ。

ともすれば、エキスパートに気軽に聞ける環境があるのに、わざわざ本を読む必要があるのか?と言われたら確かに「本を読む」ということに懐疑的にならざるを得ない。
何よりも本に書かれている事は既に確立された技術。技術者なら自分で新しいものを産み出したいという欲求もある。
「本に書かれているものを作る」のではなく「本に書かれるものを作る」という気概はカッコイイ。



まぁこの辺はさだまさしの歌に「地図にない街を探したきゃ始めに地図が必要」なんて一節があるが、これと同じで、結局既に確立されているものかどうかの検証の為にも文献は必要になるのだが。
因みに、僕はこの言葉に感銘を覚えつつも、本によって知識をより深く覚える事は大切であると思っている。温故知新という言葉もある。



更に驚くべきが「覚えるのはコンピュータでよい」と語っていること。大正生まれがそこまで言えるのってメチャクチャカッコイイ。全くその通りなのだ。前述の本の話が1959年、この話が1982年。どちらにも通ずるものがあって、ブレてない。そう、機械に出来る事は機械にやらせておけばいい。人には人の領域がある。因みにこの話ではカンニングにも触れており、「カンニングできるんならしちゃえばいい」って話をしている。この辺の考え方ってホリエモンにも近いものがあるような気がする。

震災で忘れ去られてしまった感もあるが、今年はインターネットでカンニングした事件も話題になった。
「コンピュータで覚えればいい」
「カンニングしちゃえばいい」
受験はともかく今はそういう時代だ。
折角記憶という行為をIT技術が肩代わりしてくれる時代なんだから別の事に力を注げばいい。それはより洗練された技術を習得することでもいいし、自分のプライベートな時間を充実させることでもいい。

少々大袈裟に書いてしまったが、だからって僕も今後読書しなくなるなんて事は無いし、広い知識を得るために本を読むことはする。そして本ならではの即時性っていうものもある。
だが、先進的な考えを持てる人というのはいつの時代にもいて、そういう人の考えは数十年後の時代であってもマッチするんだなぁと感心した次第。

2011年7月16日土曜日

ふしぎなキリスト教

最近読んだ本。



結構過激、面白い表現をしているところもあり、読み物として面白い。

ただし、Amazonの書評を見ると1をつけている人も結構いる。その人たちの批判点は著者(というか対談している人の)キリスト教の歴史認識の甘さ。そういうことを言われていることを念頭において読まないとこの本に書かれていることが全て正しいと思い込んじゃう。ちゃんと勉強したいと思うなら他にもキリスト教の本を読まないとダメだろう(それなら聖書読めよって気もするが)。

元々宗教には興味が無いし、自分が宗教をやる気が無いというかやったら何となく自分の力で生きてる気がしなくなるっていうか…まぁそんな感じで宗教関係の知識は全然無い。
では何故この本を手にしたのか?それは、なぜ人は宗教をやるのか?といったことには興味があるから。

もし神がいるならね、自分の人生、例えば今僕がこの文章を書いている、キーを打つタイミング、それが何μ秒なんて時間以上に厳密に神の決めた運命通りだとしたら?自分の頭で考えてるように思ってるけど、それすら全て神に決められたものだとしたら?そう考えたら途端に人生がつまらなくなりそうだ(と考えるのも神が決めていたこと)。

では逆に人生を思い通りに生きていたとしよう。しかし死後、生き方によって天国か地獄に行くことになるとしたら?神の力があるなら地獄に行くような因子を何故人間に入れたのって思う。人間の妬みや恨みといった負の感情、争いが起きるようなことを最初からなくしておけばいいのに。

そもそもね、世界中に神がいすぎるのが不思議。本当にユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神がいるなら、その神が世界を作ったのなら、世界各地に別の神がいるのはおかしいじゃない。各宗教をやっている人はそういうことを疑問に思わないのだろうか?と思うわけね。
※ 自分の信ずる神以外は偽者だということかもしれないが、偽者多すぎないか?日本には八百万もいるんだし

で、そんな疑問はずーっと昔から持っているんだけど、今回たまたま本屋でこの本が目に付いたので買ってみたっていう…本当に何気に買っちゃったのね。
そんなわけで、この本を読むまでユダヤ教とキリスト教とイスラム教の神様がいっしょとか、その神様の名前とか知らなかった。アダムとイブとかノアの箱舟とかモーセの十戒とかね、なんとなく話を聞いたことがあっても何教のことだかさっぱり。
まぁその辺の神様ってゼウスじゃないの?とか、その割にはギリシャ神話って天使出ないよね?みたいな。そんな程度の知識(因みにギリシャ神話の知識はアリオンと聖闘士星矢とコロコロポロン)。

それくらい知識が無くて読んでみるとこの本は結構面白い。本の内容としてはユダヤ教からキリスト教ができて、キリスト教がどのような歴史を辿り現代社会に影響しているかという話が主題。それに交えてキリスト教の矛盾点をどう解釈するかといった話も出てくる。

それが正しいかどうかはともかく、著者の持論、表現の仕方は面白い。神は地球を作ったんだから地球外生命体とかね。あと、偶像崇拝を禁止しているわけでもない日本の神道で何故像を作らなかったのかという理由とか。

先に書いたとおり、Amazonの書評によると鵜呑みにしちゃダメなのかもしれない。しかし、面白い本だった。

2011年1月28日金曜日

名古屋発どえりゃあ革命!

そんなタイトルの本を読んだ。著者は河村たかし。

ぼくは河村たかしがどうにも受け入れられなかった。原因の一つが名古屋弁。
「おいおい、お前が名古屋弁を嫌いってどういうことだ?」
と言われそうだが、名古屋弁は悪くない。むしろ良い。関東に3年も住んで、僕も今では名古屋弁が取れてしまったが、やはり地元の言葉は心地よい。
しかし、これは場を考えて欲しい。全国ネットや他府県のテレビ番組で自分の主張を言うのであれば標準語で喋る方がいい。標準語っていうのも曖昧かもしれないけど、所謂関東っぽい言葉。己の主張をより多くの人に伝えたければ母集団が多い方を選ぶ程度のことはすべきだと思うから。少なくとも国民全体を考えなければならない国会議員の頃はそうすることが好ましいと考えるからだ。
そして、この本を買って改めて河村たかしの写真をみて気付いた。この人楽天の三木谷氏と同系列の顔だ…あの手の顔の人は苦手なのだ。お二人とも面識はないが、何となく話をしても手玉に取られそうな感じ。

さて、肝心の本の内容だがとにかく読みにくい。なんせ文章が名古屋弁で書いてあるんだもん。
先にも書いたとおり地元の言葉は心地よい。しかし、口語である。これを文章にされたらとても読みにくくなるということがよくわかった。
内容は書いてあることを素直に受け止めると非常にいいことを言っているように思える。
しかし、減税し自治を住民に任せるならそれは金を払わなくなった代わりに住民に別の負担がかかるわけだし、全ての人がそれを受け入れられるか?というのは疑問。著者の指示をしてくれている人たちなら喜んでやるんだろうけど。尤も本の内容を信じるならモデル地区の方たちは活き活きとそれをしているそうなので、それが全体に広がってもうまくいくのかもしれない。
そして議会を批判するのはいいけど議会議員が果たして著者のように本を出して売れるだろうか?嘘を書いているとは思わないけど、少なくとも批判するなら相手の意見が自分と同じ程度の露出度というか伝搬力を持っていなきゃどうしたって世論的に自分が有利になることくらいわかっていると思うけど。
まぁ上記のように気になることが無くもないけど、本に書いてあるようなことが本当に出来るなら是が非でも名古屋に帰りたいと思わせてくれる一冊だったことも間違いない。

市長が誰でも僕は名古屋が好きだけどね。