今日twitterで流れてて気になった言葉。
酒に飲まれて弱さまで曝け出したみっともない自分と対峙してこそ酒がわかると言いたいのだろうか?
そういう考え方もあるだろう。
だが酒にせよ、食事にせよ、普段使っている万年筆や車やPCのような工業生産品、今こうして書いているblogにせよ作り手がいる。果たして作り手は己の作り出したものを使ってくれた人の生々しさを曝け出すために物作りをしているだろうか?
例えば服を作っている人は、着た人が(その服に見合うかどうかはさておき)目いっぱいカッコ良く見えるために作っているんじゃないか?
そんな風に思えるんだけど。
弱さを曝け出す酒を否定する気はない。そういう飲み方もある。だが、先日再販された山崎の50年のような酒がそれを目的として作られているとはとても思えない。
酔いという気持ちの良ささえ肴に酒と対峙する。その姿も又酒の愉しみだと僕は思う。
「故に酒に飲まれてこそ本当の酒飲み」という言葉にはそういった側面があることは否定しない。だが、それが唯一無二であると言う人がいたとすれば、僕はその人と解り合えないような気がする。
そろそろボジョレー売ってるだろうな。
結局ボジョレー買えずに698円のワインでちょっと酔ってこの文を書いている。
2011年11月17日木曜日
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