2011年5月22日日曜日

誕生日

昨日。41回目の誕生日。

数日前母親から電話がかかってきて、誕生日が土曜日だから兄一家と食事に行くことに。
行った店は松戸の外れにあるバジル。この店、場所の割にポテンシャルが高い。たまに一人でも行く。

誕生日に
「おめでとう」
と言ってもらえるのは嬉しいわね。家族を除くと今年は飲み屋の店員3人&twitterで1人に言われただけ。人間関係は考え直したほうが良いかも知れぬ。

さて、この歳になると誕生日っていうものを考えるようになって、先の「おめでとう」という言葉。よく
「この歳になるとおめでたくもないんだけどね」
と返す人も多い。
うん。めでたいかどうかはさておき、周囲の人に対して
「ありがとう」
と思うことは必要かな。なんせ40年も生きてこられたんだから。
青臭い頃なら「空気と水と食料があれば生きていける。」なんて言っちゃうんだろうが、今の社会で金を払わずに手に入れられるのは空気くらいのもんだ。金も払わず公園の水道で蛇口をひねれば飲料水が得られる恵まれた社会とは言え、それすら税金があるから実現できること。
金が流れるということは経済活動が行われているということで、そこには知人であるなしを含め必ず人が介在している。そういう人の活動(それは他人からする自分も同じだが)があるから収入を得ることが出来て生きていられるんだなと。
だからこれだけ長い間生きてこられたことを周囲の人に感謝しないとね。短気だからよく忘れちゃうけど。

そして誕生日のもうひとつの側面。上記のような考え方は恐らく未来がわからないから「おめでとう」や「ありがとう」になるのだろう。
一休さんは
「正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
などと言ったらしいが、そのとおり。誕生日などと言わなくても1分、1秒でも時間が過ぎればそれは死までの残された時間が減ることをを意味している。
誕生日という区切りに、どれだけ残っているかわからないが、残りの人生で出来ることを考えなきゃいけないなと改めて思うのだった。
来週にはそんな気持ちも忘れているだろうけど。

2 件のコメント:

  1. あんどちんさん

    一日遅れですが、お誕生日おめでとうございます。

    生まれてきて良かったって思えるような、幸せな人生を送れますことを、お祈り申し上げます。

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