2011年5月22日日曜日

褒められ欲

時々、このblogに関して面白いと言ってもらえることがある。有り難い。
コメントが少ないのは寂しくもあるが、生の声で言ってもらえたりするとモチベーションが上がる。

褒められることは何かをやるモチベーションを維持するための大きなエネルギーになる。誰かが見てくれているということを実感すると露出狂じゃなくても嬉しいのだ。

仕事において
「よくやってくれました」
いや、そこまで言われなくても
「ご苦労さん」
なんて言われると満足感を得られるのに似ている。
※余談だが、このたった一言で部下や協力会社の人が報われた気になることもあるということに気付いている管理者は少ないんじゃなかろうか?

しかし、人間には欲がある。例えば仕事において。「できるから」とか「優秀だから」なんて言われ続けてもいつか嬉しくなくなる。
僕らが客としてどこかの店に行ったとき、出てきたものやサービスが良ければ、ぶっちゃけ見えないところでサボってようが適当にやってようが満足できる結果が得られれば、例えこちらが金を払う側であったとしても、相手に対し感謝するし褒めるのは当たり前なのにね。

しかし、それが自分になると見えなくなってしまうことがある。「流石ですね」などと言われても、「あんた俺の仕事してるとこなんて見てないじゃん。結果だけじゃん」なんて思うようになるのだ。逆に「xxさせると流石ですね」なんて仕事の一部を褒められれば「全体で見てくれよ。俺にできることはそこだけじゃないだろ?」なんて思ったりね。
一部も全部も褒められたくなる。ガキっぽいしくだらないと思うけど、感情なんてそんなもの。

で、このblogの文章が面白いと言われると、有難いと思うし今後も書こうと思う反面、「『××の話の○○という表現が良かった』なんて言われたらもっとテンション上がるんだろうな」なんて思っている。
それが自分でも良く書けたと思っている表現なら尚更ね。
結局褒められても更に褒められたい、違うところで褒めてほしいという欲が無くなることはないってことなんだろうな。

そして、そういう気持ちがありつつも、「文章」という制約に歯がゆさも持っている。
やはり話の抑揚、間、それらを文字で表すのは難しい。ここに書いていることを音声で録音し、音声blogにしたらもっと面白く出来るゼ!みたいな感じ。
「こんな会社じゃなかったら俺はもっとデキるゼ!」
よろしく
「文字だけじゃなかったら俺はもっと面白いゼ!」
みたいにね。
我に返って冷静に考えると前者みたいなことを言っている人は大概周囲は白けていて
(とっとと辞めればいいじゃん…どこ行っても変わらんよ)
なんて思われていることもしばしば。
それを顧みると今後も文字だけの方が変に火傷をせずに済むのかなぁ…
尤も自分の容姿は勿論のこと、声も晒すつもりはないんだけどね。恥ずかしい。

なんで自分の声って自分で聞くと凹むような声質なんだろう?もっとダンディーだと思ってたんだけどなぁ…

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