2011年1月22日土曜日

認められぬ哲学

先日書いた続きになってしまうが、中村天風の本を読んでいる。

宗教を否定するのはわかる。占いだの願掛けだの縁起物だのも否定しているがそれもわかる(宗教よりむしろこちらの否定が強い)。
内容は非常に理にかなっている。元々占いだの縁起だのを証明する術はないし(と言うと占い師さんに怒られるだろうが)、本に書かれていた通り、体が悪くなれば医者に診てもらい、自動車だの電車だのテレビだのと科学技術が発展して産まれた恩恵を受けていながら自分の都合が悪くなったり、オイシイおもいをしたいと思った時だけ占い、縁起物に頼るのもどうしたものか?頭の中では非科学的なことだとわかっているはずだ。

非常に納得できる話、というか縁起を担いでいる人だって頭の中でそれらが論理的に繋がるなどとは思っていないだろう。だからこれって当たり前の話なんだよね。縁起を担ごうなんて思ってないときは当然のごとく納得できる話。

そうは言っても僕だって縁起を担いでいるものがある。例えば財布。今は黄色い財布を使っていて、いいかげん変えなきゃと思ってるけど今度は緑にしようか?などと風水で金運が良さそうな色を選んだり。
もっとも財布に関しては先の文を読んで「まぁ、気に入ったら黒でも茶色でもいいや。」という気持ちになった。

しかし、全てを認めるわけにはいかない。
何故か?
認めてしまうと玄関先に鎮座し仕事から帰ってきた僕を出迎えてくれるタヌキの存在意義が無くなってしまうからだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿