2011年2月18日金曜日

起業せよと言うけれど

インターネットの普及や昔のより発起人や資本金の制約がゆるくなったためか、若くして成功した人たちが起業を勧めていることが多い。最近ぼくが何冊か読んだ堀江貴文や勝間和代も言っている。

「起業せよ」

この意味を勘違いしてしまうと一億総社長になれと言っているようにとれてしまう。
全員が社長になる、つまり雇われるものがいない社会になるのを望んでいるのだろうか?
昔と違い全員が店を構えることは無いだろうが、そんな世界って世界が巨大な商店街ってことだろうか?
「インターネットというインフラがあるんだから全員が店を持てばいい」
いやいや、全員が一人で会社をやるならインターネットプロバイダも勿論だが楽天みたいなものは出来ないだろう。楽天という会社ではなく楽天という起業集団になるのなら可能かもしれないけど。

結局いわんとしていることは起業したい人が起業しやすい社会、失敗してもやり直せる社会が望ましいということだろうけど、ぼくでも先に書いた通りの勘違いをしてしまいがちだ。
起業したい人が起業しやすいように、雇われたい人が雇ってもらえる社会が望ましいんだよな。勿論雇われたいと思っているだけじゃなくて、雇い主の希望に沿うだけの働きをすることは必要。

起業を勧める人が社員を沢山雇っている、もしくは社員を雇っていた人の場合、きちんと説明しないと、自社の社員に辞めろと言っていると勘違いされるんじゃないか?と、ふと疑問に思った。

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